きレ】1日200頁の読書と読んで考える習慣

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■きっかけ
齋藤孝さん、池上彰さん、出口治明さんの著書に「古典を読みたまえ」と書いてあったから。

 
学問なんていうのは、何も書物をたくさん読んでいることではない。本当に考えて書を読む。書を読んで考える。そこに本当の学問がある。われわれは本当の学問をしなければいかん。片々たる知識、イデオロギーなんて必要とするのではない。

 
これは『酔古堂剣掃「人間至宝の生き方へ」(安岡正篤、現代活学講話選集5、PHP文庫)』の一文である。

中国の古典「酔古堂剣掃(すいこどうけんすい)」は、中国・明末の教養人・陸紹こう(りくしょうこう)が長年に渡って愛読した「史記」「漢書」など、おおよそ50種にも及ぶ古典の中から会心の名言、嘉言を収録した読書録。


■淡は偏りがないこと
 
普通の淡と言えば淡い。淡いというのはどういうことかと言えば、味がない、薄味のことだなんて解釈しています。しかしそんな解釈ならば、「君主の交わりは淡・水の如し」などは、君子の交わりというものは、水のように味がないとなってしまう。君子の交わりはつまらんということになってしまう。だから「淡」とは味がない、味が薄いというような意味ではない。


外食のときに日本酒の銘柄が分からず「おすすめの日本酒」を聞くと、「こちらの銘柄は淡麗なので料理の邪魔をしません」のような勧められ方をされる。「邪魔をしない?」だったら「水でいいじゃん」と「淡麗のお酒の良さって何?」と思っていた。

君子の交わりは淡・水の如し


味がない味が薄い、つまらん味ではない。「邪魔をしない」と言われると料理が上で酒が下のように思っていたけれど逆なのかもしれない。

一言で言うなら、甘いとも苦いとも渋いとも、なんとも言えない妙味、これを淡という。



■学問は考えること
 
皆、大学を出て優等生だったのだろうけど、本当の学問をしておらん。本当の学問というのは人間・人格・教養・悟道というような学問であるけれども、そんな学問は何もしていない。ただ学校で教科書・参考書を読んで、試験を受けて、与えられた一時間か二時間かにいくつかの問題に答案を書けばそれでいい。講義を聴いたり、参考書を読んで、暗記でもすればそれで間に合うというようなものは真の読書でもなければ学問でもない。

 
 わたしの唐突に始まった「1日200頁読む」は学問ではなくただの読書。学問だとは思っていないけれど、興味のなかった分野への足がかりにはなっている。わたしが学生の時、哲学の先生に「専門書より新書を読め」とよく言われていた。何の興味のない分野の図書を読んで何の意味があるのか分からなかった。今は知らない分野を知ることが楽しみになっている、その分野の触りだけかもしれないがほんの少し視野が広がる。ここから書を読んで考えられるようになれば学問になる。そこまでしなければこの読書は無意味。
  
 
参考サイト
Amazon 酔古堂剣掃「人間至宝の生き方へ」(安岡正篤、現代活学講話選集5、PHP文庫)
楽天市場 酔古堂剣掃 安岡正篤
ヤフーショッピング 酔古堂剣掃 安岡正篤